今日も仕事か…憂鬱だな…
なんでお金のために働かなければいけないの?
幸せの定義は人それぞれ。
自分にとって心地良ければ幸せです。
客観的なものではありません。
自分との対話が必要です。
働かない自由はあります。
しかし、働かずにはいられないのではないかとも考えます。
毎日職場へ出勤するとき、憂鬱に感じることが多いのでは?
繰り返される日常に「果たしてこのままでいいのか?」と疑問に思うことは不思議ではありません。
今回は三大幸福論を参考文献に、仕事と自由について考えます。
この記事を読めば、仕事に対する考え方を変えるヒントを得ることができます。
適応障害で療養中の筆者が、あり余る時間の中で仕事について考えましたのでお伝えします。
気楽にご覧ください。
きっかけは精神疾患
幸福について考えるきっかけになったのは、退職です。
私は15年間介護施設で勤めていましたが、最近退職しました。
原因は適応障害です。
疲労感が蓄積し働くことができなくなりました。
原因ははっきりしないのですが、おそらく仕事でのストレスが原因です。
色々調べると、自律神経失調症による体の不調であることが分かりました。
現在も療養中ですが、手持ち無沙汰になってしまい、ブログを書いています。
波乱万丈の始まりかもしれないと、記憶に残すために記録をとっています。(笑)
「働かなければ!」と自分を鼓舞すれば、余計に疲れが出ます。
労働と療養の葛藤に苛まれる毎日で辛いです…
働かない自由はある
人として生まれてきた以上、働かなければ生きていけないのでしょうか?
生物学的には、筋肉や脳の機能は使わなければ徐々に衰えていきます。
年齢を重ねれば、さらに衰退のスピードは速くなります。
逆に、毎日適度に運動している人はイキイキとしています。
体を動かせば、脳も活性化します。
人は文字通り「動く生き物(動物)」として生まれてきたので、やはり体を動かしていたほうが良いのでしょう。
心と体は連動しています。
療養中の過ごし方について、医師から適度な運動を勧められました。
私が最も困っていることは体がだるく、疲れやすいことです。
これに拍車をかけるように運動を取り入れれば、疲労がピークに達するのは確実です。
実際運動してもスッキリしない日が続きました。
「こんなにつらいのだから少しは休んでもいいだろう」
自分の中では働かない自由もアリだと言い聞かせ休みました。
そう考えると少し楽になります。
世間体は許さないと思いますが、世間の目を気にしている余裕もありませんでした。
仕方ないのです…
自分自身が納得しなければ、体は思うように動きません。
仮に体が動いたとしても、それはいつまでも続きません。
いつか限界が来ます。
内なる声に耳を傾けることが必要です。
自分軸について、こちらの記事もご覧ください。
職場の対人関係について、こちらの記事もご覧ください。
働いていても自由な人がいる
「働かざる者、食うべからず」とよく言いますが、本当でしょうか?
そもそも、働き方ひとつとっても、いろいろあります。
(下記はあくまでも一例です。職業を否定する趣旨ではありません。ご了承ください。)
- 朝から晩までアルバイトを掛け持ちして、寝る間も惜しんで働く店員。
→ 時間もお金もない
- リモートで通勤知らずの営業職。
→ ある程度裁量はあるものの、完全に自由ではない。
- 客の来ない受付。
→ 退屈だが、時間に拘束されている状態。
- 自分が働かねば、収入がストップしてしまう個人事業主。
→ 時間をコントロールしきれない。資金繰りに振り回される。
それぞれ大変なのですね。
境遇は違っても、それぞれのポジションで働いています。
不遇であっても、満足して自由を感じている人もいます。
自由を感じられるかどうかは、主観的なものです。
自分が満足していれば、給料がいくらであろうと、福利厚生がなかろうと、自由で居られます。
一方で、自由に働いている人の中には、忙しい=仕事だと考え「暇人はロクなことをしない」と他者を攻撃する人もいます。
でもそれは間違いです。
暇人だって働いている人はいます。
実際には忙しさに濃淡があります。
逆に、退屈であれば自由かというと、それも違います。
方程式で片付くような、単純なことではありません。
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「仕事」と「自由」は微妙な関係
前章では、「忙しい=仕事」ではないとお伝えしました。
本章では、「退屈=自由」も間違いであることを検証します。
「退屈と自由」について、昔の人はどのように考えていたのでしょうか?
幸福論を書いた哲学者3名の考えが参考になります。一部抜粋します。
ラッセル
ラッセルは仕事を「退屈予防」として、前向きにとらえています。
仕事は、何よりもまず、退屈の予防策として望ましいものだ。というのは、おもしろくはないが、どうしてもしなければならない仕事をしているときに感じる退屈などは、日々何ひとつすることができないときに感じる退屈と比べれば、ゼロに等しいからである。
B・ラッセル『幸福論』
また、「仕事をしていれば、休日になったときにずっと楽しい」と言います。
ラッセルにとって仕事とは…
- 退屈しのぎに最適
- 仕事をすれば休日も充実する
- 何もしないよりはマシ
という考えです。
退屈の種類によりますが、「働いたほうがHappyだ」と言っています。
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アラン
アランは農業を例に挙げて、退屈を全否定します。
自由に働くのは最も楽しいが、奴隷のように働くのは最もつらい。もっとも、自由な労働というのは、労働者自身が自分の持っている知識と経験にもとづいて調整する仕事のことである。
アラン『幸福論』
自分の手を動かして、自分の裁量でできる仕事が「自由」でありBESTです。
ここまでは、当たり前の話に聞こえますが、続いてこんなことも言っています。
土地につながれている奴隷は、他の奴隷に比較すれば、しあわせな奴隷である。どんな召使いたちも、自分の思いどおり働くことができ、長くいられる保証があれば、我慢することができる。…(中略)…ただし、主人は退屈するであろう。だから、賭け事やオペラ女優にうつつを抜かすことになる。社会の秩序が乱されるのは、いつも退屈さからだ。また、退屈さからくるばかげた行為からである。
アラン『幸福論』
働く場所が確保されている奴隷は、そうでない奴隷よりも幸せだ。その代わり、奴隷が活き活きと働けば、主人は退屈になる。そうして主人は堕落するというのです。
奴隷の幸せと引き換えに、主人が不幸になるという話です。
アランにとって、退屈は敵なのでしょう。
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ヒルティ
仕事は実りが多いから、働かなければもったいないというのがヒルティの考えです。
最も愉快な、最も報いられることの多い、その上最も安価な、最もよい時間消費法は、常に仕事である。
ヒルティ『幸福論』
仕事はコスパとタイパが良いのだそうです。
これほどに、仕事というものが人生において効率的だとすると、働かなければもったいない!ということでしょうか?
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退屈だと自由を感じられない
幸福論の偉大なる著者3名の主張をまとめます。
・退屈は一見自由だけれども、心身に良くないからオススメしない。(アランは退屈を全否定)
・多少きつくても仕事があるほうが幸せ。
・自分でコントロールできる仕事があれば、なお良し。
つまり、仕事がない状態は退屈であり、退屈であるということは、自由ではないということになります。
仕事≠退屈≠自由 です。
しかし、自由になるために仕事が必要だとは断言できません。
働くことが自由への道であるとは言い切れないのです。
労働と自由について、こちらの記事もご覧ください。
それでも働かない自由がある
以上の検証を踏まえたうえで、仕事に対する私の考えです。
昔、お金に困っていないお金持ちは、退屈しのぎに仕事をしていました。
私はお金持ちではありませんが、気持ちは分かります。
今の時代でも、退屈しのぎに働いている人々はいます。
それも自分の意思で自由に選択しているのです。
逆に、働きたくても働けない人々がいます。
重度障害者・高齢者・病気療養者…
すべて自分の意思で自由に選択しているとは言えません。
憲法に勤労の義務が規定されていますが、個人の幸福という観点においては無意味な規定です。
憲法は国民の幸福を保障しません。
私が考える理想は「適度なボリュームで、自分自身が納得して働く」です。
「適度なボリューム」とは、「過労ではない」ということです。
仕事となると、ついつい頑張ってしまうのですが、
調べる限り、「働きすぎ」について肯定する人はいません。
実は、仕事内容もあまり関係がないようです。
働いてみて、「あっ、これならいいかも。」と納得できる感触があれば、仕事内容にこだわる必要もないかもしれません。
(採用する側は知識や経験を求めるかもしれませんが…)
もしもクヨクヨ考えるくらいなら、失敗してもいいから、何か始めてみるのが良いでしょう。
そのほうが、スッキリします。
自分自身が幸せを感じられる働き方をしてみませんか?
よろしければ、こちらの記事もご覧ください。
まとめ
仕事選びは主観的な指標が必要です。
そのために自分との対話が必要です。
働かない自由はあります。
私は働かない自由を選択し、療養しています。
しかし、働かずにはいられないのではないかとも考えます。
理想は「適度なボリュームで、自分自身が納得して働く」です。
この記事が、転職を考えている方の参考になれば幸いです。
最後までご覧いただき、ありがとうございました。
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